


情報のインフレは、つくる側の姿勢をも変えてしまった
スマートフォンとSNSの登場により、私たちは人類史上初めて「誰もが情報を発信できる環境」を手に入れました。
広告はもちろん、動画投稿や拡散記事など、そのすべてが、かつてない速度と量で世の中に流通するようになりました。
これは表現者にとって大きな可能性である一方、情報の供給量が増えすぎたことで、情報そのものの価値が下がるという現象も起きています。経済で通貨がインフレを起こすように、情報もまた確実にインフレを起こしています。
その結果、私たち発信者自身が「速く、強く、分かりやすい情報」を優先する思考に引き寄せられているのも事実です。
情報環境が変わっただけでなく、制作者側の判断基準そのものが書き換えられていることを自覚する必要があります。
情報をつくる仕事が、なぜ“消耗戦”になったのか
広告やコンテンツ制作の現場では、「分かりやすく」「刺さる」「一瞬で伝わる」ことが常に求められます。
それ自体は間違いではありません。しかし、その条件が過度に強調されると、情報は次第に“反応を取るための手段”に変わっていきます。
私たち自身もまた、数字や反応に追われ、考え抜いた情報よりも、すぐに反響が起きるような安易な表現を選びがちです。
その積み重ねが、情報を消費財にし、制作側の思考をもすり減らしていきます。
情報過多によって疲れているのは、受け手だけではありません。
情報を生み出し続ける側もまた、情報のスピードと量に飲み込まれ、自分たちの仕事の手応えを失いつつあるのです。
軽く消費される情報と、思考を動かす情報の違い
SNSで評価されがちな情報は、まるでF1マシンのようです。
スピードが速く、瞬間的な切れ味があり、観る者を一瞬で興奮させる。
しかしその寿命は短く、すぐに次の情報に置き換えられます。
一方で、哲学者や研究者が長い時間をかけて絞り出した情報の核となる言葉は、ダンプカーが地面を踏みしめて進むような重みと馬力を持っています。
加速は遅いかもしれませんが、一度動き出せば世界の構造そのものを動かす力がある。
情報が重いとは、派手であることではありません。
その情報が思考を深め、世界の見え方を更新し、長く残り続ける力を持っているかどうかです。
現代は、この二種類の情報が同じ場所で流通しているからこそ、混乱が生まれているのです。
情報をつくる側として、取り戻すべきもの
情報が安くなった時代に、私たち発信者がすべきことは、さらに声を張り上げることではありません。
一度立ち止まり、「この情報は何を動かすのか」「どんな思考を残すのか」と問い直すことです。速さや分かりやすさの裏で、削ぎ落としているものは何か。自分自身の観察や迷い、引っかかりを、きちんと情報に含めているか。
そうした内省こそが、情報に重さを取り戻します。情報の質は、作り手の思考の質です。
軽く消費される情報を量産するのか、それとも時間をかけて深く響く情報を作るのか。
その選択は、表現の技術ではなく、制作に向き合う姿勢そのものなのだと思います。