


今日の私は先週の私と同じなのか?
同じとするならその根拠は?今日の私と去年の私なら、答えはどうなる?
私の細胞は間違いなくゆっくり交換され続けているが、そのことが私を別人にするだろうか?
それとも体は別物になっても私は私のままなのだろうか?
この問いには答えはないのかもしれません。
なぜ、それを問うかによって答えは違ってくるからです。
年齢を重ね、経験を重ね、時には大きな失敗もし、時には途方もない喜びを感じながら、今日の私は、このコラムを書きながら幸せを感じています。
20代の時の私は、今日を予測できていただろうか?
当然、答えは、まったく描けていませんでした。
ただ、振り返ると人生をかけて問い続けていた時間の連続であったことは間違いありません。
この出来事から私は何を学んだのか?どう感じたのか?そしてなぜそう感じたのか?
もし私が間違っているとしたら、それはどうしてか?その意味は?
学生の頃、「人間とは考える葦である」、この言葉をどこかの授業で聞いて、その後このフレーズは私の心の中に残り続けました。
フランスの17世紀の思想家、数学者であったフレーズ・パスカルの言葉ですが、この言葉の意味は、人間というのは弱い面もたくさん持っているが、「考える」という働きが偉大であるということです。
「考える」といことはとても人生にとって贅沢な時間です。
今だからこそ、そう感じますが、時には「考える」ことを放棄したいと思う時期もありました。
考えても答えがでないときは、もう動くしかないと、無謀に動き続けた頃もありました。
それでも、人間である以上、「考える」ことをやめてはいけないと思うのです。
目標を明晰にして思慮深く考えたり、他者が何を考えているかに心を配り、その人とともに問題や課題を考えたり、考えることで未来の時間はつくられ、そして未来を変えることができるのです。
考えただけでは、自分の望む多くの疑問の答えは見つからないかもしれません。
しかし、「考えること」は、少なくとも世界に対する関心を高めるような問いを発する力や、ありふれた日々の生活の中にも不思議と驚きが潜んでいることに気づく力をつけてくれます。
日本の教育では、残念ながら「考える習慣」を教えてくれる機会が少ないよう思えます。
道徳の時間や倫理の時間は確かにありましたが、高校までの学校教育に「哲学」という科目はありません。
以前、このコラム欄でも書きましたが、私は高校時代、何故か「哲学」の本ばかりを読み続けていた時期がありました。
哲学の本は今でも私の心の友です。
だからこそこう思うのです。今日の私は間違いなく、昨日の私とは何かが違う。
そうですね、「考える」ことやめない限り、これからも私は変わり続けていくのでしょう。
そして、皆さんも変わることを楽しまれてください。